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トスカーナのルネサンス都市(1)フィレンツエ― 巨匠たちが歩いた街

フィレンツェはイタリア中部トスカーナ州の州都であり、現在およそ36万人が暮らす中規模都市です。日本の感覚では「大都市」とは呼びにくい規模ですが、その存在感は歴史と文化に裏打ちされた比類なきものです。


今日「歴史的中心街」と呼ばれる地区は、15世紀にその骨格が完成しました。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといった巨匠たちが歩いた街路は今も続いています。当時の人口は最大で10万人に達し、ヨーロッパでもミラノと並ぶ大都市のひとつでした。これは当時のパリやロンドンの人口を上回る規模であり、フィレンツェが欧州において突出した都市であったことを示しています。


都市は直径1マイルほどの城壁に囲まれ、その外側には「コンタード」と呼ばれる3マイル圏の農村領域が広がっていました。都市と農地は緊密に結びつき、フィレンツェは時に周辺都市を支配し、時に抗争に敗れるなど、領域の拡大と縮小を繰り返してきました。


15世紀のフィレンツェ
15世紀のフィレンツェ photo by koichi.kambayashi

アントニオ・ダ・サンガッロによる想像図(15世紀後半、1470年代頃)


15世紀には、市を象徴する建築が次々と誕生しました。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオーモ)は当時最大規模の司教座聖堂として完成し、シニョリーア広場には市庁舎=ヴェッキオ宮殿がそびえました。その入口を飾ったのが、若きミケランジェロによる《ダヴィデ像》です。さらに、ドゥオーモと広場を結ぶヴィア・デイ・カルツァイオーリは拡張整備され、街並み条例によって沿道の景観は美しく保たれました。


特筆すべきは、都市運営と建築制度の革新です。ドゥオーモ建設にあたっては「オペラ」と呼ばれる建設組合が組織され、評議員による設計競技を通じてブルネレスキ案が採択されました。市民的合意に基づく制度的仕組みが、ルネサンス都市の骨格を生み出したのです。


ダヴィデ像はもともとドゥオーモに設置される予定でしたが、レオナルド・ダ・ヴィンチを含む評議員たちの議論を経て、最終的にシニョリーア広場のヴェッキオ宮殿前に置かれることとなりました。ミケランジェロの作品は、個人の創作を超えてフィレンツェ市民の意志を象徴する存在となり、市民の総意として受け入れられたのです。実際に現地で作品を目にすると、それは単なる彫刻ではなく、当時の市民の精神を凝縮した象徴として迫ってきます。


サンタ・マリア・デル・フィオーレ
サンタ・マリア・デル・フィオーレ photo by koichi.kambayashi

ドゥオーモを今も見守るブルネレスキの彫像
ドゥオーモを今も見守るブルネレスキの彫像 photo by koichi.kambayashi

ヴェッキオ宮殿入口のダヴィデ像(複製)
ヴェッキオ宮殿入口のダヴィデ像(複製)photo by koichi.kambayashi

現在のヴィア・デイ・カルツァイオーリ
現在のヴィア・デイ・カルツァイオーリ photo by koichi.kambayashi

こうして形成された都市は、600年を経た今日もその姿を大きく変えることなく維持されています。歴史的中心街は今も市民の生活の場であり、周囲のコンタードの村々もワインやチーズの産地として存続しています。農村滞在型観光=アグリツーリズモを通じて、地域文化と伝統的な食は守られ続けています。


日本の観光が「物見遊山」や慰安旅行の性格を強く持つのに対し、ヨーロッパのバカンス文化は地域の食や暮らしに根ざした体験を重視します。その意味で、フィレンツェの街と生活は、現代日本の「モダン・アーバニズム」と対比して、「ルネサンス・アーバニズム」と呼ぶにふさわしい豊かさを伝えているのです。

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